ベルカント唱法の高度なテクニック


  ベルカント唱法では、声は低音から高音に向かって逆三角形のように大きく広きく広がるイメージになります。そのため、ベルカントの歌い手の声は高音で輝かしく響き渡るのです。このような高音を獲得するために、特にテノールではパッサッジョの扱い方を学ばなくてはなりません。また、歌唱表現の幅を広げるためには、クレシェンド・デクレシェンドを自由に扱う「メッサ・ディ・ヴォーチェ」の技術も大切です。このページでは、このような歌い手にとって有益なテクニックを紹介します。

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【パッサッジョとアクート】  《 passaggio , acuto 》


 女声歌手と男声歌手とでは、パッサッジョの音域や扱い方が大きく異なります。特にテノールにとっては細心の注意が必要な音域で、このパッサッジョの音域をどのように歌うかは大きな問題です。なぜなら、この音域をうまく扱わないと、輝かしい高音に達することができず、アリアを歌い切ることさえ困難となります。特に、ヴェルディのテノール役にはこのパサッジョの音域付近で勝負するような旋律が多く出てくるので、この音域を完璧にコントロールして歌うテクニックは重要です。

オペラ「リゴレット」より、マントヴァ公爵のアリア「Parmi veder le lagrime」
オペラ「リゴレット」より、第2幕マントヴァ公爵のアリア「Parmi veder le lagrime」。ヴェルディは意図的にパッサッジョ付近の音域を行き来する旋律を使い、マントヴァ公爵のジルダに対する繊細な心の内を見事に表現しました。

 しかし、中には例外もありまして、高名なテノール歌手であるジュゼッペ・ディ・ステファノ〔Giuseppe Di Stefano 1921〜2008〕は、このパッサッジョの部分を他の音域と同じように全てアペルトのまま歌いました。(ディ・ステファノはパッサッジョでもアペルトのまま歌うため独特のフレージングとなり、それが彼の歌の魅力の一つにもなりました。)ディ・ステファノは多くの録音を残しているので、他のテノール歌手と聴き比べると彼のパッサッジョの音域の独特な歌い方が明確に分かります。(*1) ただし、このような歌い方はあくまで例外です。ディ・ステファノだからこそできるのであって、多くのテノールにとっては危険な歌い方となりますので注意が必要です。

 では、テノールの声に注目してこのパッサッジョの音域の歌い方を説明します。

(*1)

 ディ・ステファノは、マリア・カラスや指揮者のセラフィンと共に旧EMIレーベルでオペラの全曲録音を多数残しています。これらの録音はスタジオでのセッション録音で丁寧に制作されました。現在ではそのMQAリマスター版(24bit/96kHz)が出ています。それを聞くと、ディ・ステファノがパッサッジョの音域でもアペルトのまま全開で歌っているのが明確にわかります。普通のテノール歌手ならコペルトで少し音色を暗くし、音量も少し抑えて歌う箇所を彼は全開で歌うため、他の歌手にはない独特なフレージングが生み出され、それがディ・ステファノの魅力の一つともなっています。

1.パッサッジョとは

 普通、低音から高音に上がっていくときに誰でも声が出しにくくなる箇所があります。(低い方の声のままで高音まで歌うことは無理なのです)テノールの場合、二点ミ、ファ、ファ#のあたりです。バリトンやバスはこれより低い音となります。これまで自然な感じで歌えていても、パッサッジョの音域に入ると急に違和感を感じて声が出しにくくなります。私たちは声が出しにくくなると、さらに力を加えたり息を多く出したりするなど、不自然な動作をしてしまいがちですが、逆にこの行為が自然な高音の発声を閉ざしてしまうのです。つまり、パッサッジョの音域を不自然な動きを排除して適切に調節しながら通過しなくては、オペラ歌手が歌う輝かしいアクート( acuto:鋭い → 声楽では、高音という意味で使います)が出せないのです。

2.パッサッジョからアクートへの歌い方

 パッサッジョの歌い方については、これまでに多くの方法が紹介されてきました。しかし、とても繊細なコントロールが必要なため、この技術の習得に大変な困難を実感される方が多くいます。目には見えない体の中の器官の動きであるため仕方がないのですが、共通して言えることは「パッサッジョの音域で無理に力を入れたり、声を押し出したりしないこと」です。

 本来、私たちにはアクートの声を出すために発声器官を自動的に調節する仕組みが備わっています。それは、パッサッジョの音域からアクートの音域に移行する際に働きます。しかし、私たちはこの働きを違和感と感じるので、ついつい無理な力を入れるなどの不自然な動作をしてしまい、その結果どんどん声が出しにくくなっていくのです。つまり、本来備わっている「発声器官を自動的に調節する働き」を私たちが邪魔をするため、アクートが出しにくいなどの問題が起きるのです。

 そこで、パッサッジョの音域では特に無理な力を入れないようにし、ジラーレも少なめにして声量を少しセーブして歌います。(パッサッジョの音域に入ると、それまでの音域とは違って声が急に出しにくくなったように感じます。力を入れすぎたり、息を必要以上に多く使ってしまいがちになるので注意してください。)また、これまでの発声練習で習得してきたことはそのまま継続し、しっかりプント(響きのポイント)を意識し、さらにジラーレは少なめですが頭の後ろの空間が開いている事をしっかり感じながら歌うことが重要です。また、前歯が見えることのないように、上唇で軽くカバーされた状態で歌います。発声のフォームが崩れた状態ではアクートの音域に到達できませんので、慎重に練習を進めてください。

 このように少し声量をセーブし、ジラーレを少なめにした歌い方が上手くできるようになると、何か声にカバーがかかったような、もしくは少し声が暗くなったように感じられるかもしれませんが心配はありません。そのように感じられていれば正解です。(これをコペルト〔coperto:覆う〕と言います)

 そして、パッサッジョの音域を過ぎアクートの音域に入ったらセーブしていた声を普通に戻し、しっかりとジラーレさせて歌います。すると声が明るくなり、パッサッジョの音域より声が楽に大きく響くように感じられるようになります。(これをアペルト〔aperto:開く〕と言います)

 なお、アクートでも前歯が見えることのないよう上唇で軽くカバーされた状態を保ってください。特に、発声のバランスが崩れて苦しくなってくると前歯が見えるようになり、輝かしく響くはずのアクートが力で押し出したような汚い響きになってしまいます。また、アクートの音を歌う前にしっかりとプント(響きのポイント)や頭の後ろの空間が開いていること、そしてジラーレさせる空間を感じ、よく準備をした上で歌ってください。

 

 繰り返しになりますが、輝かしいアクートを実現させるためには、声をしっかりとジラーレさせながら歌うことが重要です。(ジラーレが不十分だと、硬く尖ったような声になってしまいます。)実はジラーレのテクニックはアクートの音域を容易にしていくためにとても役立つのです。特に、アクートを出す前に頭の後ろの空間が開いているのをしっかりと感じている事が重要で、それと同時に頭上の空間を前もって高く感じておいた上で声を回していくのです。するとアクートが解放され、それまでより楽に声がどんどん生み出されてくるのが感じられるようになります。そしてこの練習を慎重に、かつ粘り強く積み重ねていくことで、声は低音から高音に向かってちょうど逆三角形のように、高音に進むに従って大きく輝かしく響くようになります。

【メッサ・ディ・ヴォーチェ】   《 messa di voce 》


 メッサ・ディ・ヴォーチェは、ベルカント唱法のテクニックの中でも最も重要なテクニックの中の一つで、歌い出しをp(ピアーノ) から始め次第にクレシェンドしてf (フォルテ)まで強くしたら、今度は徐々にデクレシェンドして p (ピアーノ)に戻るという一連の流れを一息で行うテクニックです。それは、途中で声のポジションを変えたりすることなく、ムラのない一つの響きの中で行われるものです。これには大変高度なコントロールが要求されます。しかし、この技術を身につけることで、歌う際に最も重要な喉頭の位置がしっかり定まります。そして、幅広い音域を不自然に力を入れる事なく声を自由に操れるようになり、歌唱表現をより豊かにすることができます。カストラートが活躍したベルカント全盛の時代より大切にされてきたベルカントの土台とも言える重要なもので、本来、長い時間をかけて習得していく技術です。ベルカントの名教師達の残した書物やソルフェッジョには、この技術について多くのページを割いて扱っているほどです。(*1)このメッサ・ディ・ヴォーチェの技術が向上してくると、その良い副産物として華麗に装飾された旋律を歌うアジリタ もより高い精度でコントロールすることができるようになってきます。

 では実際の練習法ですが、最初は息だけでクレシェンドからデクレシェンドを練習し、息のコントロールの感覚をつかみます。その感覚がつかめたら、次は高い響きのポジションでプントを意識して歌い始め、喉頭の後ろの空間が広がっていることもよく意識しながら徐々にクレシェンドしていきます。デクレシェンドする際にもプントの意識と同時に、喉頭の後ろの空間が広がっていることを感じるのが重要です。そして、デクレシェンドしていく中でも喉頭の部分で常に発音し続けているように感じてください。この発音する部分があちこちに移動することなく、一定の位置で歌えるようになるまで繰り返し練習をしてください。

 このテクニックは曲の中で大きな表現効果を生み出すことのできる歌い手にとって重要なものです。十分にコントロールされたメッサ・ディ・ヴォーチェは、それだけで聞き手を引きつけることができます。カストラートのファリネッリ(Farinelli  1705〜1782 イタリア)は長大な長さのメッサ・ディ・ヴォーチェを聞かせた後、目にも止まらない速さのアジリタ で人々を熱狂させたと伝えられています。最初は特にデクレシェンドさせるためのコントロールが難しいですが、繰り返し練習して身に付けていくことが大切です。焦ることなくじっくり時間をかけ、イメージした通りに自由にクレシェンド・デクレシェンドができるまで練習してください。

 なお、メッサ・ディ・ヴォーチェの練習を発声練習の最初に行うのは良くありません。ジラーレやアジリタ の練習の後か、その間に行ってください。なぜなら、メッサ・ディ・ヴォーチェの練習は高度なコントロールを必要とする練習ですから。

(*1)

例えば、ジャンバッティスタ・マンチーニ(Giambattista Mancini 1714〜1800)の「ベルカントの継承:装飾された歌唱に関する実践的省察 Riflessioni pratiche sul canto figurato」に、メッサ・ディ・ヴォーチェに関する彼の認識やテクニックの解説を知ることができます。

【声を自在にコントロールするための鍵】


 これまで、ベルカント唱法の基礎から高度なテクニックまで述べてきましたが、ここまで勉強を進めてきた皆さんにとって、今後とても重要となる「声を自在にコントロールするための鍵」とも言える大切なポイントについてお話しします。

 伝統的なベルカント唱法においては、声を顔の前面のどこかの部分に当てるなど前方の声の焦点を意識するのではなく、声が発生する場所である喉頭を意図的に意識します。そして、喉頭の周りの空間を広げ喉頭が自由に機能できるようにするのです。ここがとても重要なポイントで、他の発声法と大きく違うところです。これまでに紹介してきた頭の後ろの空間を意識することにプラスして喉頭の周りの空間を大きく広げるように感じます。ちょうど、顎の下の首の辺りから首の後ろにかけの部分をゆっくりと縦にも横にも広げていく感覚です。最初は息をゆっくり吸いながら練習するとこの感覚がつかみやすくなります。これは、かつてのベルカントの教師たちが言っていた「声を飲み込むように」とか「声を後ろに」という感覚にもつながるものです。

 さらに、母音の発音はこの喉頭の部分もしくは声帯で発せられることを意識して歌います。すると、私たちに備わっている喉頭の優れた能力を十分に引き出し、声のコントロールが容易になり、先に紹介したメッサ・ディ・ヴォーチェやアクートのテクニックが強化され、この後に述べる細かく速い装飾的な旋律を歌いこなすアジリタ の超絶技巧も楽々とこなせるようになります。

 喉頭は私たちが想像しているよりもはるかに高度で緻密な機能を備えており、その動きを邪魔するような余計な力から解放してやることで、本来の能力を引き出すことができるようにするのです。(もちろん、これまでに身につけてきた、堂々と見える姿勢、外側に広がっていく意識、高い響きのポイントなどができている上での話です)この本来声が発せられる場所である喉頭を意識して歌うことで、テクニックのより確実な安定を実感でき、歌唱表現の可能性は飛躍的に高まってきます。これは、声を自在にコントロールするための鍵となってくれます。

 ここまで高度な内容まで踏み込んで勉強してきましたが、いかがでしたでしょうか。さて、歌唱表現の幅を広げていく上での重要なテクニックとして「アジリタ」があります。細かく速い音符を確実に歌いこなすためにアジリタの技術は欠かせません。では、ベルカント唱法Ⅳ(アジリタ編)をご覧ください。