テノール歌手の歴史

 現在、私たちがCDやコンサート等で聞き慣れているテノールの歌声は、昔からずっと同じだったのでしょうか。実は、私たちが聞き慣れているテノールの歌声は、史上最も有名なテノール歌手の一人であるエンリコ・カルーソー〔Enrico Caruso 1873〜1921〕に始まります。カルーソー以前の歌手とそれ以降の歌手とでは、歌唱法が大きく変わっているのです。さらに歴史をさかのぼって見てみると、カルーソー以前にもテノールの歌声にはいくつかの大きな変化があったことが分かっています。

ローマ歌劇場
1880年ロッシーニ「セミラーミデ」で開場したローマ歌劇場。「トスカ」初演など数々の名演が行われてきた。

 一例を挙げると、現在のテノール歌手は高音を輝かしく力強い声で歌いますが、昔のテノール歌手はファルセットの柔らかい声で歌っていました。そして、パッサッジョと呼ばれる中音から高音への声の変わり目では、滑らかにファルセットへ移行していく事が重要とされ、その技術の習得に多くの時間が費やされていました。ですので、モーツアルトやロッシーニのテノールのアリアは、現在私たちが聞くのとはかなり違った声で歌われており、演じられる人物像やオペラ全体の印象もかなり違っていたのです。

 このようにテノールの声が変化してきた要因は、歌唱技術の発展や向上だけでなく社会情勢や価値観の変化も大きく関わっています。では、テノールの声がどのように変化してきたのかを「テノールの声の誕生」から見ていきましょう。

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テノール歌手の歴史 Ⅰ   〜 初期からロッシーニ以前まで 〜


《 初期のテノールの声 》

 初めて「テノール」という声が記述に載るようになった1500年代頃、表記上は「テノール」でしたが、音域から見てみると現在の「バリトン」に近かったと考えられています。その頃の代表的な歌手としては、ヤコモ・ペーリ〔 Jacomo Peri 1561〜1633 〕が挙げられます。ペーリは、オペラ史上最初の作品となる「ダフネ」を作曲した人物として知られていますが、自身も歌手として参加し、「エウリディーチェ」のオルフェオ役で出演していました。また、この時代のテノール歌手には、同じく作曲家でもあるジュリオ・カッチーニ〔 Giulio Caccini 1545〜1618 〕が挙げられます。カッチーニも実質的にはバリトン的な音域の歌手でした。このように、初期のテノールは音域的にはバリトンに近く、クラウディオ・モンテヴェルディ〔 Claudio Monteverdi 1567〜1643 〕の「オルフェオ」では、テノールに割り振られた役での最高音は二点ミまででした。なお、この時代のテノールは、主に恋人役を担当しました。

イタリアのヴィチェンツァにある、世界最古の常設の屋内歌劇場 テアトロ・オリンピコ (Teatro Olimpico)。

ルネサンスの偉大な建築家アンドレア・パッラーディオによって設計され、ヴィンチェンツォ・スカモッツィによって完成し、1585年に開場しました。


《 カストラートが進出してきた時代 》

 1600年代後半に入ると、オペラの主役としてカストラート(伊 castrato)の歌手が登場してきしました。カストラート歌手の特徴である驚くべき息の長さ、しなやかさ、驚異的なアジリタのテクニック、声の色彩の多様性…等によって、彼らは瞬く間にオペラの舞台を席巻していきました。(彼らはナポリやヴェネツィアなどイタリア各地にあったコンセルヴァトーリオと呼ばれる音楽院で、約10年間の極めて厳格なトレーニングを積みました。音楽院では歌唱だけでなく演技・語学・文学なども学び、舞台で長く活躍するための確かな土台を身に付けました。しかし、実際に成功したのはごくわずかでした。)

 さて、現在では考えられないのですが、この時代は役柄と性別と声質に無関心で、カストラートは恋人役だけでなく女装して女性の恋人役まで歌いました。一方で、テノールに関しての記述は少なく、あまり関心が払われていませんでした。テノールは主に脇役を担当しました。この時代のテノールの最高音は、時に二点ソをファルセット(falsetto)で出していたと考えられますが、たいていは二点ファ以下の音まででした。残念ながら、技術的にもカストラート歌手には全く歯が立ちませんでした。

《 声による超絶技巧がもてはやされた時代 》

 1700年代に入ると、カストラート歌手と女性歌手がずば抜けた能力を発揮し、声による超絶技巧を披露していました。舞台上では、恋人役にカストラートの歌手、そして男装した女性歌手が登場するといったことが起きました。(テノールの声は、恋人役に適しているとは考えられていませんでした。)

 さて、この時代は、いわゆるヴィルトゥオーゾ主義(代表的な作曲家として、ニコラ・ポルポラ〔Nicola Porpora 1686〜1768〕、そしてアントニオ・ヴィヴァルディ〔Antonio Vivaldi 1678〜1741〕が挙げられます。)が幅を利かせ、長い息のパッセージや複雑で速いパッセージなど、声による曲芸が行われました。そして、自然現象(例えば嵐)や小鳥のさえずりを声で表現するなど、そこにはバッロクの驚愕の美学(人々に驚きを引き起こす)が表れていました。有名なカストラート歌手ファリネッリ〔Farinelli 1705〜1782〕に関して、次のような批評が残っています。「ファリネッリは、半音階の上行下行のすべての音をトリルやコロラトゥーラを織り込みながら一息で歌うことができる。そして、そのトリルやコロラトゥーラは非常に女性的であり、かつ完璧な技術である。」この記述からもカストラート歌手の卓越した歌唱力の高さが伝わってきます。

カストラート歌手のために作曲された技巧的アリア
オペラ「アルタセルセ」より「私は揺れる船のよう Artaserse:Son qual nave Ch'agitata 」(リッカルド・ブロスキ作曲)より抜粋。 作曲家リッカルド・ブロスキが、弟である“カストラート歌手ファリネッリ”のために作曲した差し替えアリア。

 一方、テノール歌手は未だに脇役で、敵役であったり、少し存在感のある父親役や偉人の役を担当したりしていました。音域的には、最高音で時に二点ソやラが出てきますが、やはりファルセットで歌われていました。

《 テノールに変化の兆し 》

 ヘンデル〔Georg friedrich Handel 1685〜1759〕の時代には、3部形式のA・B・A'のアリアが多く書かれています。最初のAやBの終末部分のカデンツアは簡素なものですが、A'のカデンツアはヴィルトゥオーゾ様式で、歌手の持てる力を存分に発揮したカデンツアが歌われました。そのような時代にあってテノール歌手の技巧も向上しました。例えば、ヘンデルの「ラダミスト」では、アルメリア王ティリダーテ役がテノールに割り振られました。この役では、難しいアジリタのパッセージや二点ラを長く伸ばすことが求められました。また、同じ時代のハッセ〔Johann Adolph Hasse 1699〜1783〕が作曲した「セミラーミデ」のイルカーノ役では、嵐のアリアがあり、上下の跳躍や二点ラでの速いトリルなどヴィルトゥオーゾ的な技巧が求められました。このように、少しずつテノールにも重みのある役が割り振られるようになりました。

《 モーツアルトの時代のテノール 》

 モーツアルト〔Wolfgang Amadeus Mozart 1756〜1791〕の時代になると、テノールはさらに高い音域で書かれるようになりました。(テノールの最高音は二点ラ、シ♭、シ、そして時には三点ドも)そして、アジリタの超絶技巧も少しずつ入ってきました。(この時代の代表的な作曲家としては、パイジエッロ〔Giovanni Paisiello 1740〜1816〕やチマローザ〔Domenico Cimarosa 1749〜1801〕が挙げられます。)モーツアルトは、イタリアに旅行した際にオペラの作曲法を学んでいるので、初期のオペラではこの時代の潮流に合わせて、「ポントの王ミトリダーテ」に三点ドがあります。しかし、その後のモーツアルトのオペラでは、技巧的なものよりも柔らかくソフトな声でレガートに歌う役(例えば「ドン・ジョバンニ」のドン・オッタービオ役、「魔笛」のタミーノ役)が書かれるようになりました。

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