テノール歌手の歴史 Ⅱ   〜 ロッシーニの時代からカルーソー以前まで 〜


《 ロッシーニの時代のテノール歌手 》

 ロッシーニ〔Gioachino Rossini 1792〜1868〕の時代になると、テノール歌手はオペラの前面に登場するようになりました。ロッシーニのオペラの場合、主役はカストラートの歌手からコントラルト歌手に変わり、同じく主役のソプラノ歌手(音域的には現在のメッゾ・ソプラノの場合も多い)と並んでテノール歌手が登場してきます。

 ロッシーニの初期の傑作「タンクレーディ」では、テノールに国王アルジーリオ役が当てられ、バス歌手・コントラルト歌手・合唱を従えてのintroduzione に始まり、アリアや二重唱など多くの場面でテノールが活躍します。

 「セビリアの理髪師」では、ロジーナ(メッゾ・ソプラノ、もしくはソプラノ)に対してアルマヴィーヴァ伯爵(テノール)が登場します。このアルマヴィーヴァ伯爵役を創唱したテノール歌手は、マヌエル・ガルシア〔Manuel Garcia 1775〜1832〕で、最終幕の大アリア「もう逆らうのはやめろ」はガルシアの卓越したアジリタのテクニックを駆使した装飾歌唱が最大限に引き出されるように書かれています。なお、このアリアの後半部分は、「チェネレントラ」で主役のメッゾ・ソプラノが歌うフィナーレの大アリアにも出てきます。さて、ガルシアは歌手だけではなく有能な声楽教師でもありました。彼のもとで育った弟子の中で最も有名になった歌手として、彼の娘マリア・マリブラン Maria malibran 1808〜1836〕がいます。また、彼の息子であるマヌエル・ガルシア2世〔1805〜1906〕も歌手として活躍した後、声楽教師として多くの弟子を育てました。また、父から受け継いだベルカントの技術は「完全なる歌唱芸術概論 Ecole de Garcia.Tratié complet de l'art du chant」という彼の書いた教則本で現在に伝えられています。さらにガルシア2世は喉頭鏡を使って発声の仕組みを初めて学術的に明らかにしています。

 この時代には他にも名歌手が多く登場し、アンドレア・ノッツァーリ〔1775〜1832〕やジョバンニ・ダヴィッド〔1790〜1864〕、ドメニコ・ドンツェッリ〔1790〜1873〕など多くの歌手の名が知られています。

テアトロ・ロッシーニ(Tatro Rossini)
ロッシーニのオペラが数多く上演されてきたテアトロ・ロッシーニ(ペーザロ)。毎年夏にロッシーニ・フェスティバルが開催され、この歌劇場に世界中から観客が集まる。
アルマヴィーヴァ伯爵の大アリア
マヌエル・ガルシアのもつ卓越したアジリタのテックニックを最大限に引き出すために書かれた、アルマヴィーヴァ伯爵の大アリア「もう逆らうのをやめろ Cessa di più resistere」(抜粋)

 ところで、ロッシーニのオペラではテノールが複数登場して活躍するものも多くあり、例えば「オテッロ」では3人のテノールが、「湖上の美人」では2人のテノールが登場し、華麗な装飾歌唱を繰り広げます。このように、ロッシーニの時代のテノール歌手はソプラノやメッゾ・ソプラノ歌手と並んでオペラの前面で活躍するようになりました。

 なお、この時代までのテノールは、パッサッジョより高い音域(アクート)はファルセットにして歌っていたと考えられており、パッサッジョで滑らかにファルセットに移行していく技術が大切にされていました。ロッシーニもその時代の価値観に合わせ、アクートは胸声ではなくファルセットの柔らかい声で歌われることを想定してオペラを作曲しました。ですので、現在私たちが聞いているロッシーニのオペラのアクートは、ロッシーニが本来望んだものと大きくかけ離れているのです。

《 ファルセットではなく、胸声で二点シや三点ドを歌うテノールの登場 》

 ロッシーニと重なって、ベッリーニ〔Vincenzo Bellini 1801〜1835〕やドニゼッティ〔Gaetano Donizetti 1797〜1848〕が活躍していた頃、テノールの声に新しい流れが生まれました。ベッリーニやドニゼッティのオペラにおいては、テノールの装飾的なパッセージは徐々に少なくなりつつありました。ロッシーニもパリに移ってからは同じように装飾的なパッセージは徐々に減少し、彼の最後のオペラ「ウィリアム・テル」ではその流れが明確になりました。

 そのような中、まず、ジョバンニ・バティスタ・ルビー二〔Giovanni Battista Rubini 1794〜1854〕が登場します。ルビーニは、ファルセットではない胸声で二点シまで出す事ができ、フルボイスでのトリルが可能でした。(ルビーニは、胸声での二点シを持っていましたが、それ以外はこれまでのアジリタの歌手と同じでした。)また、「声の涙」と言われるテクニックも持っていました。この歌声を聴いた、ベッリーニは、「私の音楽に天使の響きを与えた」と言っています。次に、ジルベール・ルイ・デュプレ〔Gilbert Louis Duprez 1806〜1896〕が挙げられます。デュプレは堂々と響く胸声による三点ドを出しました。この声を聴いたロッシーニは「喉をかき切られた雄鶏の金切り声」と不快感を示しましたが、当時の聴衆から人気を得ました。

 さて、ロッシーニやベッリーニ、ドニゼッティらが活躍していたこの時代には、2つのタイプのテノールの存在がはっきりとしてきました。一つ目は、テノーレ・ディ・グラツィア(Tenore di grazia:優美なテノール)で、パッサージョから上の音域はファルセット、しなやかな声で優れたアジリタのテクニックをもちます。もう一つは、テノーレ・ディ・フォルツア(Tenore di forza:力強さのテノール)で、胸声によるアクートや力強い響きをもちます。ちなみに、ルビーニはテノーレ・ディ・グラツィア、デュプレはテノーレ・ディ・フォルツアの歌手でした。

《 ヴェルディの時代のテノール 》

 ジュゼッペ・ヴェルディ〔Giuseppe Verdi 1813〜1901〕のオペラが世に出始めた頃、テノールには徐々に力強いフレーズが与えられ、アジリタはどんどん姿を消していきました。そして、ファルセットは徐々に使われなくなり、胸声でのアクートが用いられるようになりました。ヴェルディの場合も、ファルセットではなく胸声で歌われることを想定して、パッサッジョあたりの中音域で勝負する旋律となっています。また、より力強い声を目指して、パッサッジョは二点ファ♯へ上がりました。(それまでは二点レで、それは滑らかにファルセットへ移行するためのものでした。)また、オーケストラパートが声と一緒に競い合うようになり、言葉と音楽と演奏の結びつきが強くなって、より感情や情熱を表現するようになったことで、テノールの声にはしだいに力強い響きが求められていきました。しかし、「オテロ」は別として、テノール役には決して特別に強大な力をもった声が必要とされたわけではありません。パッサッジョのあたりに集中した旋律において、時には緊張感や活気ある場面を表現し、時には甘美なフレーズや悲壮感のあるフレーズを歌い上げるためには、これまでの発声のメソッド(アジリタやメッサ・ディ・ヴォーチェを十分に使いこなせる)が基盤にあることが重要でした。

 この時代のテノール歌手としては、「リゴレット」のマントヴァ伯爵役を創唱したラファエッレ・ミラーテ〔1815〜1885〕、「レニャーノの戦い」など初期オペラや「仮面舞踏会」のリッカルドを創唱した、ガエターノ・フラスキーニ〔1816〜1887〕、「運命の力」のアルヴァーロを創唱し「トロヴァトーレ」のマンリーコの最初の3点ドを歌ったエンリコ・タンベルリック〔1820〜1889〕が挙げられます。

《 カルーソー登場の前夜 》

 1800年代の末、テノール歌手たちのレパートリーは大きく変化してきました。大劇場で上演される演目からロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティといった作曲家のオペラが少なくなり、そこに、ビゼーやマスネ、そして初期のヴェスリモのオペラが入ってきました。また、ワーグナーの作品も多く上演されるようになりました。ワーグナーのテノールはヘルデンテノール(英雄テノール)と呼ばれるもので、中音域が中心で、分厚いオケーストラを乗り越えて声を響かせることが求められました。このような流れの中で、これまでのカンタービレなメロディではなく、デクラメーション調のフレージングが頻繁に登場したり、時には激しいフレージングや叫びなどが入ったりすることから、しだいに大声を張り上げる風潮が広まってきました。

 この時代に活躍したテノール歌手としては、ヴェルディの「オテロ」歌いとして知られる、フランチェスコ・タマーニョ〔1850〜1905〕が挙げられます。タマーニョは、高音での力強さ(美しさも兼ね備える)が持ち味で、録音も残しています。また、中音域が素晴らしくフレージングが巧みなテノールとしてジョン・バティスタ・デ・ネグリ〔1850〜1923〕がいますが、タマーニョとは違うタイプの「オテロ」歌いとして活躍しました。

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