ベルカント唱法の高度なテクニック (アジリタ編)


 ベルカント唱法の歴史を見てみると、複雑かつ華麗に装飾された旋律を歌う「装飾歌唱」を得意とする歌唱法であったことが分かります。そして、この装飾歌唱を可能とするための鍵となるテクニックが「アジリタ」です。アジリタは歌唱技術を向上させるだけでなく、声の健康を保つためのとても重要なテクニックです。このページでは、このテクニックの歴史的な変遷と具体的な練習方法を紹介します。

*ここでは現在のベルカント唱法の歌い方の上に、装飾歌唱のテクニックを構築する方法を紹介しています。

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【アジリタ】 《 agilità 》


【アジリタとは 〜 特徴とその歴史 〜 】

 アジリタ(agilità)とは、細かく速い音符の連なりを敏捷に歌うテクニックでコロラトゥーラ(coloratura)とも呼ばれます。それは、まるで楽器で演奏するかのように「声を転がすように歌う」技法です。この技法はカストラートの時代に大きく発展しました。有名なカストラート歌手のファリネッリ〔Farinelli 1705〜1782  イタリア〕の歌った楽譜が今に残されていますが、まるで器楽の楽譜かと見間違うような幅広い音域と複雑な装飾音で構成された楽譜となっています。さらにそこからは、声の可能性を最大限に発揮する高度なテクニックが曲全体に散りばめられていることが読み取れます。このような特徴からも分かるように、この時代はこのような複雑かつ華麗に装飾された旋律を歌う装飾歌唱(カント・フィオリート canto fiorito)に重点が置かれ、作曲家よりも歌手の名人芸がもてはやされました。このような装飾歌唱をするための鍵となるのが、先ほど述べたアジリタ(agilità)のテクニックで、人々はこれによって生み出される声の超絶技巧を楽しみに歌劇場に足を運んでいたのです。

 さて、少し時代は下りますが、カストラートの伝統がまだ色濃く残る時期に活躍したのが、ロッシーニ〔Rossini 1792〜1868〕、ベッリーニ〔Bellini 1801〜1835〕、ドニゼッティ〔Donizetti 1797〜1848〕で、彼らの作曲したオペラはベルカント・オペラと呼ばれます。ベルカント・オペラでは、登場人物の心情を表現するためにアジリタを駆使して声の可能性を最大限に発揮することが求められ、ベルカントの歌唱技術は頂点に達しました。

ファリネッリのアリア
オペラ「アルタセルセ」より、「私は揺れる船のように Artaserse:Son qual nave Ch'agitata 」(リッカルド・ブロスキ作曲)より抜粋。 作曲家リッカルド・ブロスキが、弟である“カストラート歌手ファリネッリ”のために作曲した技巧的なアリアです。ブロスキは、ファリネッリの声を熟知していて、彼のよさを最大限に発揮できる曲をいくつも作曲しています。このアリアはアジリタの高度な技が要求され、声の可能性を最大限に発揮することができます。カストラートの歌唱技術の高さが読み取れます。

 ところが、その後のヴェズリモ・オペラの時代には、アジリタではなく「力強く響く大きな声と劇的な表現」が求められるようになり、コロラトゥーラ・ソプラノなど一部を除いてアジリタの技法は長い間忘れ去られていました。しかし、このような流れの中にマリア・カラス〔Maria callas 1923〜1977〕が登場し、彼女と指揮者のトゥリオ・セラフィンによって以前のベルカント・オペラが再発見され、いくつかの名作が復活上演されました。

 マリア・カラスはドラマティックな声でありながらアジリタが歌える歌手(ソプラノ・ドラマティコ・ダジリタ Soprano drammatico d'agilità)で、まさにベルカント・オペラの時代の名歌手(例えば、ジュディッタ・パスタ 〔Giuditta Pasta 1797〜1865〕や、マリア・マリブラン Maria malibran 1808〜1836〕)たちのスタイルでした。

マリア・カラスによって復活上演されたオペラとして、例えば「アルミーダ(Armida)〈ロッシーニ作曲〉」、「アンナ・ボレーナ(Anna bolena)〈ドニゼッティ作曲〉」、「ノルマ(Norma)〈ベッリーニ作曲〉」、「ランメルモールのルチア(Lucia di Lammermoor)〈ドニゼッティ」〉」、「メデア(Medee)〈ケルビーニ作曲〉」などが挙げられます。

 さて、マリア・カラスに続き忘れ去られていたベルカント・オペラを復活上演したのがソプラノのジョーン・サザーランド〔Joan Sutherland 1926〜2010〕です。彼女は夫であるリチャード・ボニングの指導のもとドラマティック・ソプラノからベルカント・オペラを歌う方向に転向し、「ランメルモールのルチア」を歌って成功を収め、その後ロッシーニの「セミラーミデ」を復活上演しました。サザーランドがセミラーミデ役を、メッゾ・ソプラノのマリリン・ホーン〔Marilyn Horne 1934〜〕がアルサーチェ役を歌いました。そのアジリタを駆使した見事な歌唱は、後にこのオペラを現代の歌劇場のレパートリーに定着させることにつながりました。

 その後、1980年よりペーザロ Pesaro(イタリア)においてロッシーニ・フェスティバル(通称ROF)が毎年8月に開催され、学術研究に基づいてロッシーニ作品が上演されてきました。ROFではアカデミア・ロッシニアーナが併設され、アルベルト・ゼッタの指導のもとで最新の研究成果を学んだ歌手が出演し、数多くの名唱を残してきました。このような長年にわたる地道な活動により、失われたアジリタの技法は再び息を吹き返しました。

 また、特筆すべき歌手としてメッゾ・ソプラノのチェチーリア・バルトリ〔Cecilia Bartoli 1966〜 イタリア〕がいます。彼女のアジリタのテクニックは素晴らしく、難しいパッセージも正確かつ自在に歌いこなし、これまでに数多くのロッシーニ作品を歌って高い評価を得ています。近年は、カストラート歌手のレパートリーであったバロック・オペラの演奏も精力的に行っています。

「ランスへの旅」 ロッシーニ・フェスティバル
ロッシーニのオペラ「ランスへの旅」(1999年ロッシーニ・フェスティバルより) アジリタなどの超絶技巧を十分に歌いこなせる歌手が十数名必要で、これまで演奏不能とされ長い間上演されてきませんでした。しかし、1984年にロッシーニ・フェスティバルにてクラウディオ・アッバードの指揮で上演されて以降、世界中で上演されるようになりました。

 このような流れを経て、現在ではソプラノからバスまで、どの声種の歌手であってもアジリタのテクニックを駆使した素晴らしい演奏を聴くことができます。

 例えば、「セヴィリアの理髪師」最終幕、アルマヴィーヴァ伯爵の大アリアはこれまで演奏不可能としてカットされてきました。(このアリアは優れたテノール歌手であったマヌエル・ガルシアの魅力を最大限に発揮できるように書かれたもので、急・緩・急の3つの部分から構成された大曲です。)しかし、現在では素晴らしいアジリタのテクニックを持ったテノール歌手の登場でよく演奏されるようになり、このオペラのもつ本来のよさを味わうことができるようになりました。

 また、オペラ「ランスへの旅」も同じく演奏不可能として長い間演奏されませんでしたが、近年では世界各地で上演されています。

(このような声楽の歴史については、「歴史的ベルカントと現在のベルカント」「テノール歌手の歴史」でも詳しく紹介しています)

アルマヴィーヴァ伯爵の大アリア
オペラ「セヴィリアの理髪師」最終幕のアルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ Cessa di più resistere」。このアリアの最後の部分は、オペラ「シンデレラ」でチェネレントラ役が歌うフィナーレのアリア「悲しみと涙のうちに生まれて Naqui all'affanno,al pianto」の後半「もう暖炉のそばで Non più mesta accanto al fuoco」に転用されています。

 さて、アジリタは華やかな演奏効果を生み出すだけでなく、歌い手の声の健康を保つためにも重要なテクニックです。(ヴェスリモ・オペラの劇的な旋律ばかりを歌っていると次第に瑞々しさが失われ硬直した声になってしまいます)声楽を学ぶ早い段階から学習するべきテクニックで、アジリタを身に付けることで声を的確にコントロールする能力が向上し、いつまでも声を柔軟で若々しく保つことができます。コロラトゥーラ・ソプラノだけでなく、どの声種の歌手にとっても重要なテクニックです。

【アジリタの練習方法 】


 では、アジリタの練習方法について楽譜も添えて具体的に紹介します。まず上行・下行する短い音型で歌いやすい音域から始めます。発音は各音の動きが明快に聞こえる「a」で練習するとやりやすいと思います。の練習では「ア〜」と伸ばして各音をつなげて歌うのではなく、一つ一つの音を「a-a-a-a-a-a-a…」と発音するように歌います。しかし、一音一音を「◯、◯、◯、◯、…」と切って歌うのではありません。各音は切れることなく、しかし音の形がはっきりとわかるようにし、粒の揃った音がつながるように歌います。「○○○○○…」のイメージです。その際、一つ一つの音の音程を正確に取りながら余分な力が入らないようにし慣れてきたら少しずつテンポを上げ、徐々に音域も広げていきましょう。これがアジリタの勉強の出発点です。

アジリタの練習1
アジリタの練習 音型の例①「上行と下行の音型」
アジリタ の練習2
アジリタの練習 音型の例②「速いテンポでの上行と下行の音型」

 トリル、跳躍、モルデント、ターン、アルペッジョなど色々な形があるので徐々に増やしていってください。トリルはゆっくりとしたテンポから練習し、正しい音程で一つ一つ粒の揃った音で歌えるようにしましょう。

アジリタ の練習3
アジリタの練習 音型の例③「音階とトリルの組み合わせ」
アジリタ の練習4
アジリタの練習 音型の例④「跳躍とトリルの組み合わせ」

 慣れてきたら下の音型の例⑤のような長いフレーズを余裕をもって歌えるところまで訓練していきます。アジリタの練習では「h」を入れないで歌ってください。余分な力を抜いて喉頭が自由に動ける状態を作り、各音が「a,a,a,a‥」とはっきりと粒の揃った音になるようにします。このテクニックを習得するには時間がかかりますので、じっくりと腰を据えて少しずつ積み重ねていってください。

アジリタ の練習5
アジリタ の練習 音型の例⑤「音域の広い上行と下行の複雑な音型」

 ヴァッカイ[ Nicola Vaccai 1790〜1848 イタリア]の声楽練習曲集で、アジリタの実践的な練習ができる「イタリアの室内歌曲の実践的過程 Metodo pratico di canto italiano per camera」を用いるのも効果的です。この練習曲集はイタリア語の歌詞が付いた歌曲のようになっていて、音階・アッポジャトゥーラ・アッチャカトゥーラ・モルデント・ターン・トリルなどのテクニックを一つ一つ確実に勉強できます。

【アジリタ の練習のポイント】

 1.響のポイントを高い位置で感じて歌います。

→声がコントロールしやすく、難しいフレーズも楽に歌えるようになります。

2.ジラーレをするように頭の後ろの空間を感じ、そこから頭上を通って前に声を回す感覚をもって歌います。

→高音に向かって一気に駆け上がる音階やアルペッジョ、大きな跳躍のある音型も歌いやすくなります。

3.各音に「h」を入れて「ハ、ハ、ハ、ハ、…」と歌うことはしません。

→一つ一つの音を「a-a-a-a-a…」と発音するように歌います。しかし、一音一音を「◯、◯、◯、◯、…」と切って歌うのではありません。各音は切れることなく、しかし音の形がわかるようにし、粒の揃った音がつながるように歌います。「◯◯◯◯◯…」のイメージです。余分な力を抜き、喉頭が弾むように自由に動ける状態にしてあげる事が必要です。

4.常に頭の後ろの空間が空気で一杯に満たされているように感じ、そこで発音するような感覚で歌います。

→難しい音型が連続しても声をコントロールしやすく、音の粒が揃った歌い方ができます。

5.腹筋が硬くならないようにし、柔軟性のある状態を保って歌います。

→腹筋が硬くなると声がコントロールできなくなってくるので注意してください。また、一音ずつ腹筋が動くことのないようにしてください。

 これらのテクニックがある程度マスターできてきたら、次はロッシーニのオペラのアリアから部分的に抜粋して練習してみましょう。実際のアリアの中では、前述の上行・下行の音階、モルデント、ターン、アルペッジョ、トリルの他に、アッポジャトゥーラ、アッチャカトゥーラ、音の跳躍が複雑に組み合わされていますので、実践的な勉強ができます。

【ロッシーニのオペラ・アリアから部分的に抜粋した練習】

 まず最初に、ロッシーニのオペラ「セミラーミデ」のイドレーノ役のアリアを例に、どのようなアジリタのテクニックが勉強できるのかを見てみましょう。

オペラ「セミラーミデ」より第2幕 イドレーノのアリアのアジリタ
ロッシーニのイタリア時代の集大成であるオペラ「セミラーミデ」より、イドレーノ役(テノール)が歌う第2幕のアリア「La speranza più soave」。アルペッジョ・アッチャカトゥーラ・トリル・音階が複雑に組み合わされ、高度なアジリタのテクニックが必要とされる華やかなアリアです。

①アルペッジョの音型で一点ラから二点ミに上がり、その後アッチャカトゥーラが入り、再びアルペッジョの音型で一点ラに戻ります。

②アッチャカトゥーラが組み合わされた下行形の音階の連続で二点ミから一点ミまで下がっていきます。その後上行形の音階で二点ミまで一気に駆け上がり、再び一点ミに1オクターブ下がります。

③下行形の音型で二点ミから一点ミに下がり、その後、アルペッジョの音型が連続します。

④アッチャカトゥーラが入ったモルデント風の音型で上がっていき、後半はアルペッジョの音型で下がっていきます。

⑤跳躍の音型で、一番大きな跳躍は一点ドから二点ラまで13度の跳躍となっています。そしてトリルが入った後、二点シから一点シまで下行の音階となり、最後はアッチャカトゥーラが入ったモルデント風の音型が続きます。

 このように、ロッシーニのアリアは短いフレーズの中にも様々な装飾音が組み合わされて構成されており、アジリタのテクニックを実践的に学習する上でとても有効です。どの曲も音の数が非常に多いのですが、一つ一つの音程を正確に取ってください。声が敏捷性をもって自由に動けるようになるためには、前提条件として自分の体が正確に音を掴んでいることが必要なのです。

 さて、この曲を的確に歌うためのポイントです。この部分は音域が広く音の跳躍の幅が大きいので、ジラーレをするように頭の後ろや頭上の空間をあらかじめよく感じ、十分に準備をしてから歌うことが大切です。また、音と音がつながってしまわないように、一つ一つ粒の揃った良い響きで歌うことが必要です。(特に下行する音型では音が流れ不正確な音程になってしまいがちです。頭の後ろの空間が空気で一杯に満たされているように感じ、その位置で発音するように意識しながら、一音一音正確に歌ってください。)遅いテンポから練習を始め、徐々に速くしていきましょう。

 さらに、ロッシーニのアリアの演奏では繰り返しで同じ旋律を歌う際には変奏をして歌います。その際の変奏の一つの例として、②後半の上行形の音階の後に、長2度のトリルを入れることができます。このような音型もアジリタのテクニックを習得するのに役立ちます。

変奏でのトリル挿入の例

 一見難しそうに見えますが、ロッシーニ自身がベルカントを熟知していましたので、彼の作品に出てくるアジリタは声にとって自然で、余分な力が入りにくいのが特徴です。(モーツアルトのオペラにもアジリタはありますが、同じアジリタでもロッシーニとは違って独特の難しさがあります。練習にはロッシーニの方が適していると思います。)

 ゆったりとした無理のない速さで繰り返し練習し、慣れてきたら徐々に速度を上げていきましょう。繰り返しになりますが、どの音も正確な音程と一音一音粒のそろった良い響きで歌えることが重要です。


 次に、同じイドレーノ役のアリアから別のアジリタのテクニックが勉強できる部分を紹介します。

オペラ「セミラーミデ」よりイドレーノのアリア中間部のアジリタ
オペラ「セミラーミデ」の第2幕、イドレーノのアリア「La speranza più soave」の中間部。最初の旋律の音符が徐々に分割され、複雑に発展していきます。

①最初の旋律は、三連符で下行する音型となっています。

②最初の旋律の音が三連符に分割され連続して下行していく音型になっています。後半は一点ラから二点ソまでを上行と下行の音階で歌い最後にアッチャカトゥーラが付いています。その後、一拍休んでから短い下行の音階が続きます。

③今度は、16分音符でさらに細かく分割され3度の幅で旋回するような音型が連続して下行していきます。後半では、一点ラから三点ドまで一気に駆け上がる音階となり、さらにアルペッジョの音型とアッチャカトゥーラが続きます。

④短い下行の音階から始まり、その後3度の幅で動く三連符が連続し、最後にターンで締めくくります。

 この部分では、最初の旋律を徐々に細かい音符に分割して変奏し、より幅広い音域を使って歌うテクニックを勉強できます。練習をする際には、一つ一つの音を正確な音程と粒の揃った響きのある声で歌うことと、三点ドまでを歌うための空間をジラーレするようによく感じながら歌うようにしましょう。また、この部分は常に声に敏捷性が要求されますので、頭の後ろの空間をよく感じながらそこが空気で一杯になっていることを感じながら歌うとコントロールしやすくなります。


 次は、ゆったりとしたテンポで華麗なフィオリトゥーラが用いられた部分の練習です。ロッシーニはゆったりとしたテンポの部分であっても、細かく複雑な装飾音を書いています。ここで紹介するアリアは、ロッシーニ作曲「セヴィリアの理髪師」の最終幕におけるアルマヴィーヴァ伯爵の大アリア「もう逆らうのをやめろ」の中間部分です。

オペラ「セヴィリアの理髪師」より最終幕、華麗なフィオリトゥーラが特徴のアルマヴィーヴァ伯爵のアリア中間部
華麗なフィオリトゥーラが特徴のオペラ「セヴィリアの理髪師」より最終幕、アルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ Cessa di più resistere」の中間部

①この部分では、アッチャカトゥーラを伴う装飾から始まり、上行・下行の音階で最高音は二点シ♭まで歌います。

②最初の旋律の音を分割して32分音符を主体とする下行形の音階が連続します。その後、ターンの音型で二点ラ♭まで上がります。

③さらに音を分割してかなり細かい音符で構成された音階です。二点ファから二点ドまで下がる音階と、二点レ♭から一点ラ♭まで下がる音階が組み合わされた音型で、それが4回連続します。

④最後は、三連符の上行の音階から始まり、続いて下行の音階となって2回続きます。そして6連符の少し複雑な下行の音階が2回入ります。最後は、二点ラ♭まで上がってから跳躍の音型で一点ラ♭に下がります。

 また、最後の部分は変奏して歌うことも多くあります。下の例では、ターンをしてからトリルで締めくくるようになっています。

アリア「もう逆らうのをやめろ」の中間部 変奏の例

 この部分の練習では、テンポの速い部分とは違ってゆったりとレガートで歌いながらも細かい音符は正確にリズムよく歌わなくてはいけません。特に③の下行の音階は一つ一つの音を粒の揃った響きのある音で歌う必要があります。カンタービレな雰囲気を出しながらも精度の高いアジリタを入れて歌うことが大切で、とてもよい勉強になります。


 続いて、アルマヴィーヴァ伯爵の大アリアの最後の部分です。速いテンポに戻り、最初に歌われる旋律が3回に渡って装飾されどんどん発展していく華麗で豪華な曲です。(そのため難度も高くなりますが…)

【1回目】

アルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ」の最後の部分

①基となる最初の旋律です。スタッカートの付いた跳躍する音型で始まって二点ソまで上がり、その後トリルが2回入ります。

②ターンの音型から二点ラまで上がり、その後下行の音階で一点シ♭まで下がってきます。

 この部分は、この曲の基となる旋律を歌いますので、明るく響のある声で丁寧に、そしてはっきりと歌うことが大切です。スタッカートの付いた跳躍する音は事前に次の音をよく準備し、一つ一つ響のある声で正確に歌うようにします。また連続するトリルは、間にある八分休符がしっかり分かるようにし、落ち着いて正確に入れる必要があります。

【2回目】

アルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ」後半部分②

③基となる旋律が装飾されて出てきます。音が分割されアッチャカトゥーラが入ったモルデント風の音型が続きます。装飾音と装飾音の間には8分休符が入っています。

 2回目は基となる旋律がさっそく装飾されて出てきますが、ここでポイントとなるのはそれぞれの装飾音の間に八分休符が入っていることです。装飾音同士がつながってしまうことがないように、しっかりと八分休符を意識して歌うことが必要です。これにより、最初の旋律が徐々に装飾され発展していくのを効果的に表現することができます。一つ一つの音を粒の揃った響のある声で正確に歌っていきましょう。

【3回目】

アルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ」の最後の部分③

④基となる旋律の音がさらに分割され、16分音符でモルデントとトリルがつながった音型が連続します。そして、最後は一点ファから二点ファまで上行する音階になっています。

⑤半音階で二点ファから一点ラに下行する音階のあと、アルペジオの音型が続きます。

⑥付点のリズムを伴った下行の音階が連続し、最終的に一点シ♭まで下がってきます。

 3回目は基となる旋律が最大限に装飾され発展した形となります。モルデントやトリル、音階、アルペジオの音型が組み合わされており、技術的な難度も高くなります。音域も広くなるので、ジラーレをさせるように頭の後ろの空間と頭上の空間を十分に感じて歌うことが大切です。また、下行する半音階では音が流れてしまわないように、頭の後ろの空間が空気で一杯に満たされているように感じながら一音一音粒を揃えて正確に歌うことが必要です。

 以上のように3回に渡って発展していくアリアの後半部分は、アルマヴィーヴァ伯爵の大アリアを締めくくる重要な部分で、ここを上手く歌わないと拍手がもらえません。そのために基となる旋律が徐々に装飾され発展していくのが伝わるように歌うことがポイントとなります。ロッシーニがそう聞こえるように楽譜を書いていますので、それに従ってつ一つの音符を正確な音程と粒の揃った充実した響きで歌いましょう。この部分はアジリタの精度を上げていくためにとても有効な練習になります。


【ロッシーニのオペラ・アリアを1曲通しての練習】

 さて、部分的に抜粋して練習する勉強がある程度進んだら、次はロッシーニのオペラ・アリアを1曲通して勉強してください。なぜなら、多くのアリアでは前半のゆったりした部分(カヴァティーナ)と後半の速いテンポの部分(カヴァレッタ)の2つに分かれていて、それぞれ必要とされるテクニックが違います。さらにロッシーニの場合、アジリタは1曲のアリアの中によく計算され効果的に配置されているので、アリアを通して演奏するための「適切なエネルギー配分」や、「アジリタの効果的な演奏法」を学ぶことができるからです。

 ところでロッシーニのアリアで2回繰り返して歌う部分では、多くの場合、歌手は変奏を入れて歌います。それは、歌手が1回目で素晴らしい歌唱を聴かせた時、聴き手はその歌手が2回目で何を表現してくるのかを期待するからです。しかし、2回目に入れる変奏は歌い手の技量を示すためではありません。何よりもそのアリアで伝えたいものをより効果的に表現することが重要です。そこで、自分自身のテクニックの限界や全体のエネルギー配分、それによって生み出される演奏効果を綿密に計算した上で適切な変奏を入れていきましょう。

【変装を入れて歌う際の具体例】

 では、アルマヴィーヴァ伯爵の大アリア「もう逆らうのをやめろ」の後半部分を例に見てみましょう。先ほどの3回に渡って装飾される部分の続きで、⑤・⑥の旋律が合唱を挟んで再び繰り返されます。下の楽譜はその際の変奏の例です。

アルマヴィーヴァ伯爵の大アリア、最後の部分 変奏の例
アルマヴィーヴァ伯爵のアリア「もう逆らうのをやめろ Cessa di più resistere」の最後の部分 変奏の例

A:16分音符のリズムで3度の幅で旋回する音型を4回連続し、ロッシーニ・オリジナルのアルペッジョの音型がつながります。続いて旋回する音型を4回連続させ、一点シ♭の音で落ち着きます。

B:16分音符のリズムで、トリルと下行の音階を組み合わせた音型で半音ずつ上がっていきます。そして、二点ソから一点ファに下行した後に二点シ♭まで上行する音階にしてアクートを響かせます。

 なお、変奏する際は自分勝手に自由に音を変えるのではなく、そのオペラはもちろん他の作品もできるだけ多く聞いたり、その当時の歌唱法についての文献等(*2)を参考にしたりして一定の様式を守って変奏するようにしましょう。(ロッシーニは、カストラートの歌手たちが、元の曲がわからなくなるほどの装飾を施して歌唱する事を嫌っていました。私たちは、何よりロッシーニの音楽を台無しにしないようにしたいものです。)そして自分の技術の限界ではなく、その少し手前で余裕をもって勝負できる変奏で歌うようにしてください。聞き手に大変さが伝わってしまっては失敗です。「難しい音型だけど簡単そうに歌っている」と見えるところまでアジリタ のテクニックを磨いていきましょう。

(*2)

 例えばトーズィ Pier Francesco Tosi(1653〜1732)の「古今の歌手に関する見解 Opinioni de' cantori antichi, e moderni 」や、マンチーニ Giambattista Mancini(1714〜1800)の「装飾の施された歌唱に関する実践的省察 Riflessioni pratiche sul canto figurato」が挙げられます。これらの文献からは、カストラートが活躍した時代の装飾音の考え方について知ることができます。(現在私たちが歌う装飾音よりもはるかに複雑で様々な約束事や習慣がありました。)また、アジリタの具体的な練習法を詳細に示したマヌエル・ガルシア2世  Manuel Garcia(1805〜1906)の「完全なる歌唱芸術概論 Ecole de Garcia.Tratié complet de l'art du chant」も変奏を考える上でとても有益です。

 ロッシーニのオペラ作品には多くの名曲があります。どれもベルカントのテクニックを駆使し、声の美しさと多彩なアジリタによって登場人物の心情を見事に表現しています。そして時代を追うごとにアジリタの使われ方が洗練されていきます。特にロッシーニのイタリア時代最後のオペラ「セミラーミデ」は、装飾歌唱(カント・フィオリート canto fiorito )の極致とも言える作品で、アジリタを駆使して声の可能性を最大限に発揮する曲に溢れています。ぜひ、多くのアリアに挑戦することで声の可能性を広げたり、直接的な感情表現をするヴェズリモ・オペラとは違った歌唱表現の素晴らしさも味わっていただければと思います。

 なお、アジリタの効果的な練習方法の一つとして、録音をとって細かくチェックすることが挙げられます。なぜなら、アジリタのフレーズは音符が多いので、自分では正確に音程をとっているつもりでも録音すると不安定な部分が見つかる場合があるからです。そこで、自分の演奏の録音を聞くことで、自分に聞こえている声と実際に出ている声を一致させていくのです。地味な練習ですが、積み重ねていくことで精度が上がり、アジリタでの声の確実なコントロールや効果的な演奏法を身に付けることができます。

 最近では録音機材の性能が向上し、より立体的で奥行き感のある、実際の音に近い録音ができるようになっています。ハイレゾによる録音も身近になりました。ですので、これらの機材をうまく活用し、声のコントロールを細かくチェックしながら勉強するのも効果的な方法と言えます。(もちろん、レッスンで実際に専門家に声を聞いていただき、適切な指導を受けるのが一番重要です。録音はあくまで練習におけるチェックの手段です。)

【おわりに】


 本来、ベルカント唱法は師匠から弟子へレッスンを通して受け継がれてきたものです。そこでは、師匠が体得してきた技術をじっくりと時間をかけて確実に受け継いできました。(高度な歌唱技術を誇ったカストラート歌手の場合、コンセルヴァトーリオでの約10年間の厳格な修行が行われていました)

 例えば、前述のパッサッジョの技術を身につける際に、「曲の中のどの音でコペルトし、どの音でアペルトにするのか」は、とても難しい問題です。これは、レッスンで指導してもらうしかありません。また、ジラーレやアジリタ、メッサ・ディ・ヴォーチェなどは、声楽の専門家の手本がなければわかりません。歌う時の姿勢一つとっても外からは見えない部分も多く、基本的に一人では勉強できないのです。

 これまで文章でベルカント唱法の基本的なテクニックから高度なテクニックまで紹介してきましたが、残念ながら言葉では十分には伝わりません。感じ方は人によっても違いますし、人によっては歌うときのクセもあります。ですので、正しい筋肉の動きやテクニックは、やはり実際のレッスンでその人の状態に合わせて訓練しないと身に付けられないのです。また、ベルカント唱法はイタリアで生まれた歌唱法ですので、イタリア人には必要なくても日本人である私たちには重要な訓練もあります。(詳しくは「ベルカント唱法を学ぶにあたって」を参照)そして、それを指導できるのは、文献ではなく声楽の専門家なのです。

 ところで、レッスンは声楽を勉強する人だけが受けるものではありません。実は、プロの歌手も発声の先生のレッスンを受け、声のコントロールをしてもらっています。なぜなら、どの歌い手も自分の出している声を聞くことはできませんし、歌っている役によっては気付かないうちにフォームが崩れてしまう事もあるからです。ですので、プロの歌手も定期的にレッスンを受けることで声を健康に保ち、確かなテクニックを維持しているのです。歌を勉強している人はもちろん、プロの歌手もステージに立ち続けるからにはずっと学び続ける事が必要なのです。

 最初にも書きましたが、ベルカント唱法は特別に恵まれた身体や発声器官を必要としない、人の体を効率よく最大限に活用することで豊かな歌声を生み出すことのできる歌唱法です。ベルカント唱法に精通した指導者のもとで一歩ずつ積み重ねていくことで、これまでになかったよく響く声が生み出され表現したいと願った事が徐々にできるようになっていきます。しかし、すぐにできるようになる訳ではありません。自分の体がベルカント唱法のやり方になれ、必要な部分が自然に動くようになるには時間がかかります。また、素晴らしい歌い手の演奏を聴くことも重要で自分が目指すべきものを確認して進んでいくことも必要です。昔の歌手は現在の歌手のようにすぐに結果を求められることはなく、師匠と共にじっくり時間をかけて勉強し、すっかり準備が整ってからデビューし、自分に合った役を慎重に見極めながら端役から徐々にスタートしていきました。デビューした後も声に少しでも不調があれば、たとえオペラの公演中であっても師匠に声のコントロールをしてもらい、声を正しくっ整えてキャリアを積み重ねていったのです。ですので、皆さんも先を急ぐことなくじっくりと腰を据えて勉強を進めていってください。ベルカント唱法を学ばれることによってご自身の歌声の可能性を広げ、歌うことや音楽を表現することの喜びを味わっていただけるようになることを願っております。

 いかがでしたでしょうか。これまでベルカント唱法の基礎的なテクニックからから高度なテクニックまで進めてきました。さて、歌の勉強をしていく上で重要なもう一つの視点として「自分の声の種類」について正しく見極めることも重要です。「声の種類について」をご覧ください。

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