歴史的ベルカントと現在のベルカント


【歴史的ベルカントとは】

 現在、私たちが認識している「ベルカント」とは、ロッシーニ(Gioachino Rossini 1792〜1868)以降のヴェルディやヴェスリモ・オペラのレパートリーなど、力強く情熱的で時には劇的な歌唱表現をする声の出し方を指しています。しかし、本来ベルカントと言われる歌い方が生まれたのは16世紀からロッシーニの活躍した1800年代中頃までの装飾歌唱(カント・フィオリート canto fiorito )を基盤とした歌い方を指しています。特に、エンリコ・カルーソー(Enrico Caruso 1873〜1921)以降、マリオ・デル・モナコ(Mario Del Monaco 1915〜1982)、ジュゼッペ・ディ・ステファノ(Giuseppe Di stefano 1921〜2008)、ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti 1935〜2007)といった私たちがよく聞くような歌手の特徴である力強い声で直接的に感情を表現する歌い方とは大きく異なります。

 色彩感のある滑らかな歌い方やメッサ・ディ・ヴォーチェ(Messa di voce)、そしてアジリタ(agilità) の技術を駆使して華麗に装飾された旋律を美しく歌い、さらに自由に変奏して歌うこと(variazione)を前提とした歌い方でした。このような装飾は、音価の長い音符を音価の短い音符に細かく分割するディミヌツィオーネ(diminuzione)という方法が用いられました。音価の長い白い音符から音価の短い黒い音符に変えるため、音符に色を塗る「colorire」という言葉から、コロラトゥーラ(coloratura)という呼び方も生まれました。このような特徴をもったロッシーニの時代までの歌い方を現在のベルカントに対して「歴史的ベルカント」と言います。

装飾(音符の分割)
音価の長い音符を音価の短い音符に分割するdiminuzione。音価の長い白い音符を音価の長い黒い音符に塗り替えることからcoloraturaという呼び方が生まれました。

 しかし、ロッシーニ以降の時代は聴衆や作曲家の趣向が変化し、装飾歌唱ではなく力強く直接的な感情表現をする歌い方へ変化していきました。さらに演奏会場やオーケストラの規模が次第に大きくなり、分厚いオーケストラの音を乗り越えて響く強い声が求められるようになったため、発声法はそれに伴って大きく変化してきました。その結果、装飾歌唱の技術はコロラトゥーラ・ソプラノなど一部を除いて長い間忘れ去られることになりました。

【忘れられていた歌唱技術を復活する動き】

 このような歴史的な流れの中でマリア・カラス(Maria Callas 1923〜1977)が登場して、ロッシーニ、ベッリーニ・ドニゼッティなどの忘れ去られていたオペラのレパートリーを復活しました。彼女の声はそれまでのコロラトゥーラ・ソプラノのような軽やかな声で転がすように装飾音を歌うものではなく、力強いアジリタを聞かせるソプラノ・ドラマティコ・ダジリタで、ロッシーニの時代のスタイルに近かったのです。(*1)

 その後、少しずつそれらのレパートリーが復活上演されるようになり、1980年から始まったペーザロにおけるロッシーニ・フェスティバルにより、本来の「ベルカント」を模索する動きが生み出され、一旦は失われてしまった装飾歌唱を基盤とした歌唱技術が見直され徐々に復活してきたのです。

 失われた歌唱技術を復活する動きはソプラノからバスまで全ての声種で行われましたが、何しろ手本となるロッシーニ時代の歌声は残されていない為、ロッシーニ・フェスティバルの公演や後に併設されたアカデミア・ロッシーニアーナを通して時間をかけて徐々に進んでいきました。

 テノールに関しては、他の声種とは違った困難が待ち受けていました。現在のテノール歌手は、アクート(高音)を輝かしい声で歌いますが、ロッシーニの時代のテノール歌手は、アクートをファルセットの柔らかい声で歌っていたのです。ロッシーニのオペラでは、三点ドや時には三点レの音が要求されますが、ロッシーニの想定したそれらの音は、現代のテノール歌手が歌った場合の輝かしい音色、演奏効果、必要なテクニックと大きく異なっていたのです。

 また、僅かに歌われていた「セヴィリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵役や「アルジェのイタリア女」のリンドーロ役などはレッジェーロの軽い声のテノールしか歌っていなかった為、力強いアジリタを歌う経験がありませんでした。例えば、「オテッロ(ロッシーニ作曲)」のオテッロ役のようなバリテノーレ(*2)を想定した力強いアジリタ は未知の世界だったのです。

 そこで、一流の歌手により現在のベルカントのテクニックをベースにコロラトゥーラ・ソプラノやメッゾ・ソプラノの歌うアジリタ を参考にしながらテノールの声による装飾歌唱を模索してきたのです。その結果生まれてきたのが「ロッシーニ・テノール」と呼ばれる歌手たちです。

 もし仮にロッシーニ時代の歌声の方向で再現したとしても、輝かしい声でのアクートに慣れた現在の聴衆の耳を満足させることは難しいと思われますので、このような現状が生まれたと考えられます。

 さて、現在のテクニックの延長線上での装飾歌唱が実際に聞けるようになると、それを手本にして多くの歌手が模倣し技を磨くようになりました。やはり実際に聞ける手本がないことには始まらないのです。そして、ロッシーニ・フェスティバルを通して、ウィリアム・マッテウッツイ(William Matteuzzi 1957〜)、ロックウェル・ブレイク(Rockwell Blake 1951〜)、クリス・メリット(Chris Merritt 1952 〜)らが登場し、その延長線上にファン・ディエゴ・フローレス(Juan Diego Flórez 1973〜)や、ローレンス・ブラウンリー(Lawrence Brownlee 1972〜)らが登場してきました。

(*1)

ロッシーニ時代のソプラノの声種としてソプラノ・ドラマティコ・ダジリタ(soprano drammatico d'agilità)が使われてきましたが、最近の研究では、ソプラノの声質だが低い音域も歌い、ドラマティックなアジリタに加えてロッシーニのメッゾ・ソプラノやコントラルトの役も歌える声として、ソプラノ・スフォガート (soprano sfogato) と分類されます。

また、これとは逆に、コントラルトの声質をもちながら2点シまで歌い、アジリタを駆使して華麗なコロラトゥーラを聞かせる声として、メッゾコントラルトという声もありました。

(*2)

ロッシーニ時代のテノールは、バリテノーレとテノーレ・コントラルティーノ(tenore contraltino)に分けられます。バリテノーレは、テノールの音域も歌えるバリトン的な声質で、力強く厚みのある声をもちながらテノールの輝かしいアクートとアジリタを聞かせることができる声です。このバリテノーレに対し、通常のテノールよりテッシトゥーラ高く軽い声でアジリタを聞かせる声が、テノーレ・コントラルティーノです。

【現在のテクニックによる装飾歌唱】


 では、現在のベルカントのテクニックで装飾歌唱をベースにした歴史的ベルカントをどのように復活しているのでしょうか。それを実現するための鍵は「アジリタ」のテクニックにあると考えます。現在のテクニックであるパッサッジョから上の音域をジラーレさせながら輝かしい声で歌う方法はそのままに、その上に「アジリタ」のテクニックを構築していくのです。そのため、これまで身に付けてきたテクニックを大きく変更する必要はありません。

 アジリタのテクニックを身に付けていくと声に柔軟性が生まれ、的確に声をコントロールする力が向上し、さらに声の健康を保つ点においても役に立つという嬉しい副産物も手に入れることができるのです。


 さて、鍵となる「アジリタ」の技術を構築していくにはいくつかのポイントがあります。では、そのポイントを紹介します。

【アジリタの技術を構築するためのポイント】

1.響のポイントを高くし、ジラーレさせるように「頭の後ろ」→「頭上」→「前の空間」をよく感じます。

  高音に向かって駆け上がるような音型では、アクートを歌うように空間を事前に大きく感じておきます。

2.頭の後ろの空間を空気で満たされているように感じ、そこで発音するように感じます。

  発音する位置があちこち移動してしまうと、不安定な歌唱になってしまうので注意してください。

3.一つ一つの音程を正確につかみ、ゆっくりなテンポから始めて徐々に速度を上げていきます。

  自分の体に音が入ってくるまでじっくり練習してください。音が体に入ると自由に音が転がります。

4.「h」を入れて歌うのではなく「a,a,a,a,a‥」と発音するように歌います。

  イメージとして、「○○○○…」のように一つ一つの音が粒の揃った形になるように歌います。 

5.トリルでは、速さを自由にコントロールできるまで訓練します。

  どの速さで始めてどこまで速くすのか、またトリルの終止をどうするのかはとても重要です。

6.音階では、一音一音の繋げ方をはっきり明確にする歌い方から滑らかにする歌い方まで幅をもたせます。

  フレーズによってはっきり聞こえた方が効果的な場合、レガートにつなげた方がいい場合など様々です。

7.モルデントやターンは、一音一音速さや滑らかさを自由にコントロールできるまで訓練します。

  一音一音明確に動かす場合、各音をレガートに歌う場合、途中で柔軟に速さを変える…など

  フレーズや表現したい事に合わせて多くのパターンに対応できるようにします。

 現在のベルカントの輝かしく響く声の基盤の上に、装飾歌唱歌唱の技術を身に付け自由に表現できるようになると、ロッシーニ音楽がもつリズム感や躍動感がより生き生きと感じられるようになり、現代の大きなオーケストラや大きな会場でもそれを効果的に表現できるようになります。また、ヴェズリモのような画一的で直接的な表現をすることのない装飾的な旋律は、オペラの登場人物の心の内を表現するために歌い手に多様な表現の自由を提供し、常に新たな表現の可能性を引き出すことができます。その結果、現在の世の中に改めてロッシーニ音楽の素晴らしさを伝えることができるようになるのです。もちろんロッシーニだけでなく、それ以前のオペラのレパートリーの演奏にも大きな役割を果たすことができます。

*アジリタ のテクニック習得の詳細については「ベルカント唱法Ⅳ(アジリタ 編)」をご覧ください。